鈴木基
*本草稿は継続的に修正・更新されます。括弧内は初稿掲載日です。最終更新日:2025.12.15
目次
はじめに(2025.8.23)
第1章 経験について(2025.9.23)
1-1 予期(2025.9.23)
1-2 形式と分節化(2025.9.23)
第2章 認知について(2025.12.09)
2-1 概念(2025.12.09)
2-2 対象(2025.12.09)
2-3 言葉と言明(2025.12.09)
2-4 認知と判断(2025.12.11)
2-5(2026.1 掲載予定)
はじめに
新型コロナウイルス感染症の世界規模流行(パンデミック)が始まってから、すでに5年以上が経過した。この間に世界中で多くの人々がこのウイルスに感染し、多数の重症者と死亡者が発生した。その影響は健康被害に留まらず、私たちの生活の隅々にまで及び、社会全体を覆った。
簡単に振り返っておこう。2020年1月、世界保健機関(WHO)は国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)を宣言し、同年3月にはパンデミック状態にあることを認めた。各国政府は感染拡大を抑えるため、国民に対して国内外の移動制限や外出制限を課し、学校や商業施設を閉鎖した。その結果、いわゆる「ロックダウン」や「ステイホーム」が日常となった。
人びとは不自由な社会生活のなかで、インターネットを通じて情報を入手し、毎日更新される世界各国の感染者数と死亡者数を確認しては、自国が他国より少なければ安堵し、多ければ政府の無策を非難した。そして不確かで解釈が定まらない情報に不安を抱き、家族や知人と議論し、自身の考えをSNSで発信した。なかには専門家と称して自説を展開し、一定数の支持者を集める者も現れた。
研究者たちはウイルスの特性と流行メカニズムの解明に取り組み、政府や企業と連携して診断薬、ワクチン、治療薬の開発を急いだ。そのひとつの成果として、新型コロナワクチンが実用化され、かつてない速度と規模でワクチン接種キャンペーンが展開された。その一方で、国際的な接種格差やワクチン忌避といった問題が浮上した。
その後、次々と新たな変異株が出現し、流行の波が繰り返すなかで、経済活動や社会活動が停滞し、「出口戦略」、すなわち何をもってパンデミックを「終わった」とみなすかが議論された。やがて感染後の重症化リスクが低下したことが確認され、多くの国が段階的に諸制限を緩和していった。そして2023年5月、WHOはPHEICの終了を発表した。
現在、各国政府は次のパンデミックに備えて戦略計画の策定や省庁の再編を行い、情報収集と研究開発の体制強化を図っている。国際的にも国際保健規則の改正やパンデミック条約の締結に向けた動きが進められている。こうした制度改革や法令改正に合わせて事後検証も行われたが、それらが必ずしも徹底的に行われたとは言い難い。
ただ、それを政府や研究者だけの責任として非難するのは筋違いだろう。なぜなら私たち自身が、このウイルスに対する興味をすっかり失い、話題にすることもなくなったからである。あれほどまでに世界中の人々を巻き込んでいた出来事を、あたかも一時の気の迷いであったかのように、記憶から消し去ろうとしているようにさえ見える。
これが、パンデミックの発生から5年が経過した私たちのおよその現在地である。このような状況で、誰かが「これから新型コロナウイルス感染症のパンデミックとは何かを考えよう」と呼びかけたとしたら、周囲はどう反応するだろうか。おそらく、その人物を、よほどの物好きか、特異な思想の持ち主と見なすに違いない。親しい友人であれば、「確かにあの頃は大変だった。でも騒ぎはもう終わったんだ。気持ちを切り替えて目の前のやるべきことに集中しろ」と諭すだろう。
確かにその通りではある。私たちは身近な心配事から紛争や気候変動といった地球規模の課題に至るまで、さまざまな解決すべき事がらに直面している。いつまでも感染症のことだけを気にかけている余裕などないというのが、常識的な反応だ。しかし、それを承知の上で、私は問いかけたいのである。私たちは本当にこのまま「終わった」ことにしてしまってよいのか、と。
なぜか。それは、私には何が「終わった」のかがわからないからだ。事実、新型コロナウイルス感染症のパンデミックは終わっていない。いまも流行は続いていて、毎日世界中で多くの人々が感染している。少なくとも終わったのが、ウイルスの流行ではないことは確かだ。ではそれは人間の側の恐怖心や警戒心なのか。そうした漠然とした感情に支配されていただけだというには、あまりに現実社会への影響が甚大だったのではないだろうか。
また、それが何であれ、なぜ終わったのかもわからない。私たちはパンデミックが始まった当初、このウイルスに感染しないように他人と接触することを避け、社会全体の感染者数を減らそうと、人類が何世紀もかけて獲得した移動や集会の自由を制限することすら受け入れたのだ。それが、いまでは流行も死者の発生も、日常の一部として受け入れている。この変化には、感染による獲得免疫の効果に加えて、変異株(オミクロン)の出現によって感染後の重症化率が大きく低下したという情報と、ワクチンの普及が影響しただろう。ただ、本当にそれだけなのか。仮に現在に至るまで重症化率に変化がなかったとしたら、いまも「ステイホーム」を続けていたのだろうか。
あるいは、最初に設定したゴールに到達したから「終わった」というのであればわからなくはない。しかし、そもそも私たちはどこを見据えてパンデミックと闘っていたのか。そのゴールは、いまのこの状況だったのか。もしそうなら、これを何と呼ぶべきなのか。
こうした疑問に、私たちが答えを持ち合わせているとは思えない。それなのに、どうして「終わった」ことにできるのか。
思い返せば、パンデミックの只中で、私たちは対策の目的や意義をめぐって激しく議論を交わしていた。「新型コロナウイルスはどのような特性をもっているのか」「ワクチンはどの程度有効なのか」といった経験科学的な問いにとどまらず、「ウイルスの排除か共存か」「生命を守るのか、それとも社会生活を維持するのか」「科学的事実か政治的判断か」といった対立軸を設定し、科学技術、自由、政治制度といった広範な主題について――あえてそう呼ぶなら哲学的な――問いを立てていたのである。にもかかわらず、こうした問いが十分に掘り下げられ、対策の方向性に実質的な影響を及ぼすには至らなかった。
私はその理由は2つあると考える。第一に、これらの議論が既存の思考の枠組みをなぞるだけで、そこから踏み出すことがなかったことである。たとえば、公衆衛生政策と個人の自由をめぐる初期の議論では、過去の政治哲学者たちの言説が繰り返し参照された。だが、これらの枠組みが今回のパンデミックを取り巻く状況の特殊性と複雑性を十分に捉えきれていないことが次第に明らかになっても、その再構築はされなかった。
第二に、こうした議論の多くが構築主義的立場にとどまり、科学的事実をカッコに入れたまま進められたことである。たしかに、ウイルス学や疫学を含む経験科学の営みについて批判的に論じられることはあったが、「ウイルスは存在するのか」「どうやってヒトからヒトに感染するのか」といった事実に関する問いに対して、経験科学以上の有効な言葉を提示することはできなかった。
これらのことは、私たちが人類史に記録される未曽有の危機に直面しながら、それを哲学的に思考することができなかったことを意味している。もっとも、それもやむを得ないことなのかもしれない。前世紀以来の科学技術の急速な進展とグローバル化の進行が全面化する中で、現在の哲学はそこから取り残されないための処世術になっている。私たちは哲学にそれ以上の役割を期待していないのだ。おそらくこのことは、私たちが「パンデミックとは何か」を問うこともなく、それを「終わった」ことにしてしまおうとしていることと無関係ではないだろう。
だが、ここで悲観的になってはならない。これまで取り組んでこなかったのであれば、これから始めればよい。誰も取り組んでいないのであれば、自らがその役割を担えばよい。いま私たちに求められているのは、このパンデミックのなかで私たちが直面した諸問題を哲学的に問い直すことである。そのために、過去の哲学に頼ることはない。現在を共に生きる私たち自身が考え、それを言葉にすることが求められる。それには新たな思考の枠組みが構築されなくてはならない。
パンデミックの記憶が過去のものとなりつつある今こそ、その作業に着手すべき時である。
***
本論で私は、「パンデミックとは何か」という問いを哲学的に探究する。議論の見通しをよくするために、ここではその目的と方法について簡単に説明しておく。
まず、本論の主目的は次の問いに哲学的に答えることである。
問い:新型コロナウイルス感染症のパンデミックが発生して間もなく、世界中のほぼすべての国家が、その国民の外出、移動、集会等の自由に対して広範な制限を課した。数年後、感染症の流行がまだ続いているにもかかわらず、それらの制限を解除した。これはなぜか。
探究の過程で問いが枝分かれしていくだろうが、本論がこの問いに貫かれていることを見失わないようにしたい。
次に本論の探究の方法は、一言で言えば「経験を反省し、変わるものと変わらないものとを見分ける」作業である。
たとえば、目の前にリンゴがあるとする。私はそれを見てリンゴだと思い、手に取り、齧って食べる。そしてふと思う。いまリンゴであると思っているそれは、本当にそこにあるのか、と。もしかすると、私はただ夢を見ているのかもしれない。あるいは悪魔が私を欺くために、映像を網膜に投影し、視線の動きに合わせて操作しているだけかもしれない。確かに手を伸ばして触れば硬さを感じる。しかし、それも悪魔が私の指の動きに合わせて圧力の感覚を与えているだけかもしれない。齧ると甘い味がするが、これも悪魔の仕業かもしれない。いや、そもそも私を欺こうとする悪魔じたいが私がつくりだした妄想ではないだろうか。このように考えれば、私はどこまでも疑い続けることができる。
一方で、「リンゴは本当にそこにあるのか」という問いに答えが見つからなくとも、私の日常生活に不都合はない。なぜなら、その答えが何であれ、あるいはそもそもそのような問いをたてずとも、視線を動かし、指で触れ、齧るという一連の行為に伴って一定の印象があらわれていることに変わりはないからだ。それらの印象は常に同じではなく変わり続けているが、全く同じものがないというわけではない。変わるものと変わらないものにわかれながら、そのようにあらわれている。私にとって、そのようにあらわれると期待して、その通りにあらわれている限り、それをもたらすのが神が保証する真の実在であろうと、悪魔の欺きであろうと、神も悪魔もいなかろうと、いずれでも構わない。私の日常生活にとって重要なのは、変わるものと変わらないものにわかれるだろうという予期なのである。そうすれば指が触れるだろうと予期しつつ、私は目の前のリンゴに手を伸ばすのだ。
経験とはこうした予期の繰り返しに他ならない。そしてこの経験そのものを反省し、変わるものと変わらないものを見分け、経験を構成しなおす作業を、私は経験論と呼ぶ。経験論とは、日常の経験を経験しなおすことである。
これが従来の経験論と何が違うのかと疑問に思う読者のために補足しておこう。本論で展開される経験論は、「存在とは何か」という問いの探究、あるいは「存在の透徹」と呼ぶべき作業の後に展開されるものである。その意味では、この経験論を「存在論的」経験論とか「超越論的」経験論と呼んでもよいかもしれない。
しかし、こうした哲学史的な議論を展開することは、「パンデミックとは何か」を問うという本論の目的にとって本質的なことではない。加えて本論では存在への問いの探究は行わないことから、その方法論に関しても単に経験論と呼ぶことにする(実際のところ、私は上記のような哲学史的な呼称を好んで使いたいとは思わない)。それでも注意深く議論を追えば、本論の中に存在に関する問いの探究の痕跡を見て取ることが出来るはずだ。
なお本論は、その経験論的な探究の作業を順を追って記述するものではない。本論はいわば彫刻作品の解釈に近い。それは、木を削り出す作業そのものを記録するのではなく、完成した彫刻作品を前にして、それを見たり触ったりしながら、その形状や質感を言葉にし、その工程を振り返りつつ作品の意味を解釈する営みである。また同じ形式に関する記述が、別のアプローチで何度か繰り返される。これは形式が別の形式に分節化され、またそれによって再構成されるという関係にあるからである。
そして私は本論を、2020年1月の世界に生きる人々に向けた「預言」のように記述する。奇異に映るかもしれないが、パンデミックの記憶が人々の意識から薄れつつあるいま、現実的な思考を展開するには、この方法が適切であると判断した。また、このパンデミックを契機として生まれた思考の在り方を後世に伝えるための意図も込められている。
本論
第1章 経験について
日常が続いている。
1-1 予期
朝、目が覚め、布団から出て、顔を洗う。サンドイッチを食べ、オレンジジュースを飲む。玄関を出て、バスに乗り、職場へ向かう。コーヒーを飲みながら、窓の外を眺める。今日もいつもと変わりがない。
もっとも、何から何まで完全に同じというわけではない。布団やタオルは同じものだが、その形や位置は使うたびに違っている。そういえば昨日の朝食べたのはおにぎりだったし、バス停に並ぶ列で前に立っている人の顔は違ったようだ。窓から見える鳥の種類も数も、おそらく同じではない。しかし、そんなことは大した問題ではない。日常は、いまもこうして流れていく。
日常には「何一つ同じものがない」ということはなく、反対に「一切が同じである」ということもない。変わらないものもあれば、変わるものもある。変わらないはずのものが、変わってしまうこともあるし、逆もある。日常とは、その流れの中で、変わるものと変わらないものがわかれていくことである。そして流れの中でそれを経験し、次の瞬間も同じようにわかれるだろうと予期している。
いま私は職場の椅子に腰かけている。デスクの上にあるコーヒーカップに手を伸ばし、取っ手に指をかけ、コーヒーカップを口元に運ぶ。これは、ほとんど意識もしない動作だ。私は、べつにまずコーヒーを飲もうと決意し、次にその形、色、質感からそこにコーヒーカップがあると判断し、さらに中にコーヒーが入っていることを確認し、取っ手の方角に向かって少しずつ距離を測りながら右腕を伸ばす――というような、面倒なことをしたわけではない。私はただ、「そこに黒い液体が入ったものがあって、それを掴んで口元に引き寄せればいつものようにそれが飲めるだろう」という漠然とした予期とともに、習慣的に一連の動作をしただけである。これは「コーヒーを飲む」と呼ばれる以前の現象である。
コーヒーをひと口飲んだ後、コーヒーカップをデスクに置き、振り向いて同僚に話しかける。私が口を開いてある音声を発すると、相手も口から何らかの音声を発する。傍から見れば、「日本語で会話をしている」ということかもしれない。しかし、別に強く意識しながらそうしているわけではない。私が「雨が降りはじめた」と言うと、同僚は「そうだ、Xさんにメールをしなくては」と言った。同僚は私の言葉を聞いて今日の予定を思い出したのだろうか、それとも私と話をしたくないのだろうか。その一言に、相手の気持ちや考えについて思いめぐらしながら次の言葉を紡ぎだすこともできるが、いつもそうするわけではない。私はたいてい、ただ「そうすればいつもと同じように目の前の相手が何らかの言葉を返すだろう」と予期しながら、習慣的に声を発するのである。
このように私は、たいてい明確に意識することもなく、何かを予期しつつ行為している。もっとも、最初からずっとそうだったわけではない。子供のころ、父親が飲んでいるコーヒーカップを触り、思いがけず熱かったので手を引っ込めたら、はずみで床に落ちたことがある。いらい、私は慎重にコーヒーカップに触れるようになった。学生時代の友人に冗談めかして「君はおしゃべりだな」と言ったとき、ひどく傷ついた様子だった。いらい、他人の振る舞いについて発言することは控えるようになった。こうした経験の繰り返しと習慣づけの結果として、いま私はコーヒーを飲み、同僚に話しかけている。
経験とは、日常の中で変わるものと変わらないものがわかれるという予期である。そしてさらに、いま経験したことを振り返って、その中で変わるものと変わらないものがわかれると予期する。これを反省という。私は何かを予期しつつ行為し、それを反省し、予期した通りでなければ、次の行為の予期を修正する。経験は、こうした予期と反省の絶えまない繰り返しだ。その結果、予期したものは、予期した通りに機能すると予期される。この経験を通じて機能しているものを形式という。つまり、私がコーヒーを飲もうとしているときには、たとえば「それを口元に引き寄せればコーヒーを飲むことが出来るもの」という形式が機能しており、同僚に話しかけているときには、たとえば「ある言葉を発すれば何らかの言葉を返すもの」という形式が機能しているのである。
こうしてみると経験の中では、様々な形式が機能している。それらは予期されたものであるから、永遠不変のものではない。ただ、決して不確かであやふやなものというわけでもない。予期と反省の繰り返しを通じてそこで機能し続けている限り、その形式はある強度をもって確かなのである。
1-2 形式と分節化
日常の動作は、おおむね習慣的である。とはいえ、私は手に茶碗を載せたら前に動き出すような、ゼンマイ仕掛けのからくり人形ではない。ただ動作するだけでなく、自身の動作を反省する。つまり経験を経験しなおす。
コーヒーを飲むとき、私は「そこに黒い液体が入ったものがあって、それを掴んで口元に引き寄せればいつものようにそれが飲めるだろう」と予期している。もっともこの記述じたいが、すでにコーヒーを飲む動作についてのある反省を伴っているから、まさに動作しているときの予期がどのようなものであるかは、そのつど違っているだろう。このような予期を反省すると、そこにはたとえば「それを口元に引き寄せればコーヒーを飲むことが出来るもの」という形式が機能していることがわかる。これはコーヒーを飲む動作を成立させているものとして予期されるもののひとつである。
さらに反省をすすめる。すると、そこには、部屋、デスク、椅子、コーヒーカップ、コーヒー、取っ手、右腕、指、口といったいくつもの構成物が見いだされる。これらもやはりコーヒーを飲む一連の動作の成立に際して、形式として機能している。すなわち、部屋の中に椅子がある、私の身体がそこに腰かけている、デスクの上にコーヒーカップが載っている、それが腕を伸ばせば届く距離にとどまっている、コーヒーカップの中にコーヒーが入っている、コーヒーカップに取っ手がついている、取っ手に向かって私の右腕が伸びている、といった具合に。これはコーヒーを飲む際に機能するものとして予期される形式が、反省によって諸々の形式に分節化されるということだ。
会話についても同様である。私が同僚に向かって「雨が降りはじめた」と言うとき、「そうすればいつもと同じように目の前の相手が何らかの言葉を返すだろう」と予期している。そこには会話の成立に際して予期されるものとして、たとえば「音声を発すれば何らかの音声を返すだろうもの」という形式が機能している。これはさらなる反省によって、部屋に私がいる、目の前に同僚が座っている、窓の外が暗くなる、窓ガラスに水滴がつく、口を開けて「あめがふりはじめた」という音声を発する――のように分節化される。そして発した音声もまた「雨が/降り/はじめた」や「あ/め/が/ふ/り/は/じ/め/た」のように分節化されるだろう。
このように、反省によって見いだされる形式は、反省の繰り返しによって諸々の形式に分節化される。この分節化はどこまでも可能である。反省し続ける限り、私の身体やその周囲にある部屋、デスク、椅子、コーヒーカップなどは各部分に分解され、それに伴って機能する形式も分節化されていく。その結果、取っ手と胴の接着面が離れないでいること、座っている椅子の脚の高さがそろっていてバランスが崩れないこと、右手の小指が軽く曲がったままであること、部屋の天井が崩れ落ちないでとどまっていること——こうしたあらゆるものが、コーヒーを飲むに際して機能する形式であることになる。
しかし、実際のところ、日常において形式が際限なく分節化されることはない。コーヒーを飲むとき、掴んだコーヒーカップの取っ手が胴と離れることはないだろう、入っているのは毒ではなく実際にコーヒーだろうと予期するとしても、隕石が落ちてきて部屋が崩れることはないだろうとまで予期するわけではない。つまり、形式の分節化には、ある傾向があって、ある程度のところまでなされている。
また一方で、分節化される前の未分節な形式が、分節化されたのちの諸形式によって構成しなおされることがある。たとえば「それを口元に引き寄せればコーヒーを飲むことが出来るもの」は未分節な形式だが、分節化されたのちに「陶磁器製で飲み口、胴、高台、取っ手で構成され、その中に液体を入れることが可能であり、一般にコーヒーカップという名称で呼ばれるもの」のように再構成できるだろう。実際にこうした再構成はありふれている。ただし、分節化を経て再構成された形式は、もとの未分節の形式とは必ずしも一致しない。たとえば入れっぱなしのスプーンや飲みかけのコーヒーは、再構成の過程でとりのぞかれる可能性がある。その結果、いまは私がコーヒーを飲む際に機能しているが、私以外の誰かがペンを立てる際に機能するようになるかもしれない。これは未分節な形式が、分節化と再構成を経て、新たな形式として機能しうるということでもある。
以上のように、経験において機能する形式には、未分節のままで留まるものもあれば、分節化されるものもあり、再構成によって新たな形式として機能するようになるものもある。それらがどこまで分節化されるか、あるいは再構成によって新たに機能するかについては、ある傾向があって、それが日常を構成している。
こうした形式の性質について、それを保証する確実な支えのようなものがなく、頼りないものと感じるかもしれない。しかし、経験はその外部にある何かによって支えられていなければ成り立たないものではない。同僚と言葉を交わした後、ふたたびコーヒーを飲もうと自分のデスクを振り返ると、そこにコーヒーカップがある。さっき私が置いたものだ。話をしている間も、私はそれがそこにとどまっていると予期していて、現にその通りにとどまっている。それを掴んで、もうひと口飲む。このとき、それが取っ手と胴から構成されていて、さっきと同じように掴んでいる限りは離れないだろうと予期し、実際に離れない。だから次のひと口をのむときも同じように予期する。つまり、経験の外部からの支えがあろうとなかろうと、私の予期する形式はある強度をもって確かである。そして、その強度は経験そのものによって与えられるのである。
***
形式は予期されたとおりに機能する限り、ある強度をもって確かである。諸形式の間に予期される分節化と再構成の関係も同じである。経験論とは、こうした諸形式の機能を反省することで、その成立に際して予期される形式、すなわち経験論的な形式を見出す作業である。
本論は経験論的形式に関する論述である。このとき諸形式が持つ特性が、その論述スタイルに影響することに注意しなくてはならない。たとえば、Aという形式がBとCという形式に分節化されているとき、Bの機能がAとCの機能によって規定されるだけでなく、Aの機能もBとCの機能によって規定されている。つまりAとBとCは、お互いに規定する関係にある。これは経験論的形式についても当てはまる。それらのあいだに相互規定の関係がある以上、Aを確定的に定義し、そこから天下り式にBを導出するというような論述のスタイルをとることはできない。そこで本論では、Aに関する暫定的な論述から始め、次いでそれに関連するBについて論述し、そこから再びAに関する論述に戻るというような作業を繰り返す。これによって、諸形式に関する議論の精度を高めることを図ることになる。
第2章 認知について
これまで知られていなかった疾患がみつかる。
2-1 概念
意識の中にイメージが思い浮かんでくる。それは次々と想起されては、どこかへ消えるように流れ去っていく。その内容は多様で、散漫だったり、おぼろげだったりするが、全く混とんとしているわけではない。程度には差があるものの、何らかの連続性や同じものの繰り返しがある。こうしたイメージの繰り返しが、ひとつの形式として機能することがある。これを概念と呼ぶ。
たとえば、ゾウのことを想像してみよう。私は、その姿かたちや鳴き声、近くに寄ったときの臭い、触ったときの皮膚の固さまで、思い浮かべることができる。そしてアフリカゾウとアジアゾウという種類があることや、個体数が減っていることから保護の対象となっていることを思い出す。ただ、私が実際のゾウを最後に見たのは、15年以上前に動物園に行った時のことだ。それ以前に、タイを訪れた時に、観光で乗ったような気もするが、そのときの記憶はあまり定かではない。ゾウに関する知識を生まれながらに持っているわけではないだろうから、私がそれに関して思い浮かべるイメージは、ほとんどが映像や文字を通して得られた情報によるものだろう。試しにインターネットを検索すれば、ゾウが長い鼻を使ってリンゴを食べている動画や、その種類や生態に関する詳細な解説記事がいくらでも出てくる。ときおり目にするそうした情報やそれらから構成されたイメージが、過去の実物に関する限られた経験と合わさって、私の心に思い浮かぶゾウの概念を更新しているものと思われる。
もっとも、概念にはさまざまなものがあって、このようにただちに比較的はっきりしたイメージが思い浮かぶものばかりではない。たとえばマレーバクのように、名前を聞いたことがあり、なんとなくその姿を思い浮かべることができても、それが正しいのかどうかについて確信がもてないようなものもある。もちろん、この場合は、動画を見たり、資料を調べたり、動物園に行ってその姿かたちを確認したりすることで、そのイメージを確かなものにできるだろう。一方で、人格、危機、おもむき、ワインを嗅いだ時のスパイスの香りのように、ある程度のイメージはつくものの、詳しく説明を聞いたり、実際にそれを経験をしても、結局その全体像が判然としないままのものもある。さらにその背景には、何らかの名前で呼ばれることもなく、何らかの印象と関係しているようでもない、概念としてさだまらないイメージが無数にある。
このように、概念は諸々のイメージの繰り返しによって構成され、ある強度をもって機能しているものもあれば、そうではないものもある。それは永遠不変のものではなく、経験を超えたどこかに個々の概念を支える「概念そのもの」というものがあるわけでもない。では、何が概念を構成し、それを機能させるのか。それはイメージの想起と印象のあらわれのあいだで繰り広げられる動的な関係である。
以下では、イメージと印象からどのようにして概念が構成され、形式として機能しているかについてみていく。特に概念の認知が成立するときに機能する形式として、対象、言葉、言明、判断、環境について検討しよう。
2-2 対象
いま、目の前に、何かかたまりらしきものがある。それは、普段は「リンゴの果実」と呼んでいるもののようだが、それ自体に名前が記されているわけではない。顔を近づけてよく見ると、全体に赤色をしていて、赤褐色と黄色の部分がまだら状になっている。首を伸ばして全体を眺めると、つぶれた球状をしていて、上部はへこんでいる。右手を伸ばして指で押すと抵抗があり、表面をなでるとつるつるしている。指先ではじくと中が詰まっているような音がする。手に取って鼻に近づけると、新鮮な香りがする。口を開けてひと口齧ると、甘い汁が口の中に流れ込む。
この間、私は一貫してある対象を予期しながら、身体を使って様々な動きをしている。それに伴って、一連の感覚的な印象(色彩、手触り、香り、音、味など)があらわれる。私はそれらが想像や身体によってうみだされているのではなくて、ほかならぬその対象によってもたらされていると感じている。そして、そこに全体に赤色で、つぶれた球状をして、固く中身が詰まっていて、新鮮な香りがして、甘い味がする対象を見出している。
このとき、ある感覚的特定という形式が機能している。この感覚的特定は、一方では見たり、触ったり、聞いたり、匂いを嗅いだり、齧ったりという一連の身体的動作を規定していて、もう一方では色彩、触感、音色、香り、味わいといった一連の感覚的印象のあらわれを規定している。その結果、身体的動作に伴ってあらわれる感覚的印象をもたらすものとしての対象が構成される。
ただし、その対象がもたらすだろう感覚的印象のすべてが表出しているわけではない。たとえば、目の前のそれを眺めているだけでは、裏側の色彩はあらわれていないし、その手触りも香りも味もあらわれていない。一方で、それらがあらわれていなくとも、手に取って裏側を見たときの色彩、匂いを嗅いだ時の香り、齧ったときの味のイメージを思い浮かべることができる。そして現に対象の構成に際しては、そうした一連の感覚的イメージが想起されている。つまり、感覚的印象の表出とともに、仮に身体的動作をすればあらわれるだろう感覚的イメージの想起によって対象は構成される。
つぎに、それをテーブルの上に戻し、目を閉じる。その姿は見えないが、いま置いたばかりのそれはそこにあるはずだ。それはさっきと同じように、見たり、触ったり、叩いて音を聞いたり、匂いを嗅いだり、齧ったりすれば、やはり一連の感覚的印象をもたらすだろう。このとき、私は身体を動かしているわけでも、それに伴ってあらわれる感覚的印象を得ているわけでもない。ただ意識の中で、そのような操作に伴ってあらわれるだろう感覚的イメージを思い浮かべている。これは感覚的特定の予期である。そして予期された機能は、反省を通して確認される。再び目を開けたとき、もし予期した通りの色彩があらわれるならば、確かに感覚的特定が機能しているということになる。そうでなければ、機能していない。
ここまでをまとめておこう。対象が構成されるとはこういうことである。
①ある感覚的特定によって身体的動作と感覚的印象が規定される。
②この感覚的特定によって規定される一連の感覚的印象が表出する。
③この感覚的特定によって規定されると予期される感覚的イメージが想起される。
④感覚的特定の予期と反省が繰り返される。
***
対象は名前や概念を規定する。それは「リンゴ」という名前の対象として機能することもあれば、「apple」という名前の対象として機能することもある。あるいは果物とか食べ物という概念の対象として機能することもある。つまり対象とは、様々な名前や概念の対象となりうるところの「これ」や「あれ」である。
対象が機能するに際して、それがどのような印象やイメージをもたらすかは関係がない。つむじ風(と呼ばれているところのもの、以下同様)のように一瞬だけ対象として機能するものもあれば、月のように継続的に機能するものもある。リンゴやコーヒーカップのような固形物もあれば、霧やオーロラのように手に取ることが出来ないものもあり、茂みの奥に感じる何かの気配ということもある。リンゴの皮、交差点を渡る人びとの群れ、壁にペンキで描かれた落書き、スマートフォンの画面上のアイコンなども対象となる。
すでに述べたように、予期に際して、その対象がもたらしうるすべての感覚的印象やイメージがそろっている必要はない。実際のところ、そのようなことは不可能だ。通りを歩いていると、遠くからゴトンゴトンと音が聞こえてきて、列車が高架を通過しているのだろうと予期するとしよう。このとき、そこに聴覚的印象はあらわれているが、列車じたいの視覚的印象や触覚的印象はない。しかし、線路上で音を立てているところのものの視覚的イメージ(列車の色や形)や触覚的イメージ(つり革の手触りや座席に腰かけたときの固さ)と共に構成されることで、それは対象として機能している。アニメやゲームのキャラクターも同様である。モニター上で変化する視覚的印象やスピーカーから聞こえてくる聴覚的印象と共に想起される諸々の感覚的イメージによって、そのキャラクターは対象として機能する。
あるいはホームに立って、次の列車は前の駅からこちらに向かって走っているだろうと予期するとしよう。このとき、列車じたいの感覚的印象はなくとも、そのイメージをもたらすところのものとして形式が機能している。ただし、この形式は感覚的イメージのみから構成されていることから、ひとつの概念であることに注意しなくてはならない。つまり、これは対象として機能することが予期される概念である。そしてホームの向こうから警笛とともにその姿があらわれるときに、それは予期のとおりに対象として機能するだろう。子供時代の自分や死んでしまった飼い犬についても同じである。昔住んでいた家で一緒に遊んでいる自分と犬の姿を思い浮かべるとき、それらは対象として予期される概念として機能している。
対象は予期と反省を通して、その都度構成される。いま構成されている対象は、いま初めて構成されたものである。いったん感覚的印象を断ったのちに対象が構成されたなら、これもまた初めて構成されたのである。その前に構成されたものとは関係がない。この対象の性質を単独性と呼ぶ。
2-3 言葉と言明
言葉は、相互に対応する感覚的印象と感覚的イメージであり、コミュニケーションを通して分節化され、再構成されている。たとえば、私が散歩中に知り合いとばったりと会い、「こんにちはどちらへ」と発声したとしよう。これは「konnichiwadochirae」という音声とその聴覚的イメージからなる言葉である。この言葉はコミュニケーションにおける機能の違いによって、「こんにちは」と「どちらへ」に分節化される。前者は誰かと出会ったときに機能する言葉であり、後者は相手の行先を聞き出すときに機能する言葉である。そして私が発声した言葉は、「こんにちは。どちらへ?」のように再構成されるだろう。
「こんにちは」も「どちらへ」も、何か特定の対象を指しているわけではない。したがって、これらの機能を規定するのは対象ではない。では何がそれを規定するのか。それは、相手からの応答の予期である。言葉がそれとして機能するのは、相手から予期した応答があるように発声しているからにほかならない。電車で隣に座っている見知らぬ人に大声で「こんにちは」と話しかけたら怪訝な顔をされるだけだろうし、知人であっても離れたところから小声でつぶやいたら反応はないだろう。予期した応答ーーたとえば、相手がこちらを振り向いて笑顔で何らかの言葉を返してくるというような――があるには、様々な条件を満たしつつ適切な言葉を用いるのでなくてはならない。私はこうしたことを、これまでの経験を通して知っていて、そのように言葉を発声するように自分自身を習慣づけている。相手も同じだろうと予期しながら。
だから「こんにちは」が挨拶の言葉として機能する理由を、その音声と聴覚的イメージの性質に求めても答えは得られない。実際、「こんにちは」以外にも、「ちは」とか「よう」も同じように機能しているし、「Hello」や「你好」といった言葉も、それぞれのコミュニケーションのネットワーク(共同体)のなかで挨拶として機能している。さらに言えば、目を合わせて軽く頷くしぐさをすることも。これらが機能するのは、それがこれまでコミュニケーションを成立させてきたからであり、その経験に基づく予期がネットワークの中で共有されているからである。
このように、言葉の機能はコミュニケーションの成立に規定されている。そして、その成立を可能にするのは習慣である。このコミュニケーションのネットワークでは、機能に応じて分節化された言葉が使用されていて、言語というひとつの体系を構成している。このようなネットワークは多数あって、それぞれに言語がある。
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概念の想起もこうした言葉の機能のひとつである。ただし、ある言葉とある概念のあいだにあらかじめ一対一の対応関係があるわけではない。コミュニケーションに際して交わされる一連の言葉とともに、ある概念が想起されることが習慣化されているのである。この概念の機能により分節化された言葉を言明と呼ぶことにしよう。
たとえば、私が知人に「さっき近所のスーパーの前に赤いものがたくさん並んでいたので何だろうと思ってよく見るとリンゴだったよ」という言葉を発声したとする。このとき私の意識には、いくつかの概念が思い浮かんでいる。近所にあるスーパー、散歩をする私、店頭のリンゴの山積み、赤く熟れたリンゴなどなど。私の言葉が機能するならば、相手の意識にも同じような概念が想起されるだろう。こうした概念の機能によって(あるいは概念の分節化に応じて)言葉は分節化され、「スーパーが近所にある」「私は散歩をした」「リンゴが山積みになっている」「リンゴが熟している」といった言明が構成される。
言明は概念の想起を前提として機能する形式である。そして、その機能は概念の性質や変化、それらの関係の記述である。たとえば「リンゴは赤い」は概念の性質を記述する言明であり、「リンゴが落ちる」は概念の変化を記述する言明である。また「赤いリンゴを食べると甘い味がする」や「手に持ったリンゴを離すと落ちる」は、これらの関係を記述する言明である。
言明がどのように分節化されるかはさまざまで、一義的に決まっているわけではない。たとえば「リンゴは赤い」という言明は、「リンゴは赤いという性質をもつ」のように主部-述部(AはBである)に分節化されることもあれば、「それがリンゴであるならば赤いものである」のように従属節-主節(AならばBである)に分節化されることもある。また「すべてのリンゴは赤い」や「あるリンゴは赤い」のように分節化されることもある。このように、言明はさまざまなやりかたで分節化され、それらの連接として再構成される。言明が分節化と再構成によって、新たな言明として機能するようになるまでの過程を推論という。
この言明の分節化と再構成を規定しているのが概念である。たとえば「リンゴは赤い」という言明は、「リンゴ」と「赤い」に分節化される。「リンゴが熟す」「リンゴには種がある」「手を離すとリンゴは落下する」「リンゴの生産量は中国が最も多い」といった言明も同じように分節化されるだろう。その分節化の形式はさまざまだが、いずれにおいても「リンゴ」は概念の性質や変化に関する記述と連接している。これは、これらの言明においてリンゴという概念が機能しているということである。
このとき、「リンゴ」という言明の一部分だけを取り出しても、概念の機能は見いだされない。それはたかだか言明の断片に過ぎないからだ。概念はそれに関連する一連の言明の束を規定するものとして機能するのである。この例の場合、リンゴは「リンゴは赤い」という言明を規定する概念であるが、これだけでは「イチゴは赤い」という言明を規定するイチゴという概念と区別がつかないだろう。つまり概念として機能しない。ここに「リンゴは果物である」と「イチゴは果物である」という言明が加わっても同じである。さらに「リンゴは木になる」と「イチゴは草になる」という言明が加わることで、ようやく両者は異なる概念として機能するようになる。実際には、リンゴとイチゴにはそれぞれに関連する言明が膨大にあって、それらの全体としての相違を2つの概念が与えているのである。
このように言明としての概念は、分節化され再構成された言明の部分を構成し、性質や変化に関する諸々の記述と連接するとともに、その連接のあり方を規定する形式として機能している。これは概念を知識として記憶する働きとも関係している。
概念が言明を規定する一方で、言明にも概念を規定する機能がある。東シナ海で新種の魚が見つかったとしよう。「漁師がその魚を釣り上げた」「それは水深200メートルに生息する」「体長は約20センチメートルである」「体は前後方向に細長く左右方向に扁平している」「頭部は比較的大きい」「体色は淡い桃色をしている」「夜行性である」といった一連の言明を通して、私はその魚について想像を膨らませる。そして、さらにコミュニケーションを通してそれに関するイメージが反復されることで、見たことも触ったこともないその魚に関する概念が機能するようになるのである。これは言明の分節化と再構成を通して概念が構成されうるということであり、新たな概念を生み出す働きとも関係している。
また、言明としての概念は、その性質として名前と連接することがある。名前は名付けるという言葉の機能である。たとえば、リンゴという概念は「リンゴ」という名前と連接することもあれば、「apple」という名前と連接することもある。言明として記述するなら、「リンゴは英語を用いた会話において「apple」という名前で呼ばれる(概念である)」ということである。ただし、すべての概念が名前と連接するわけではない。むしろ名前のない概念はありふれている。
2-4 認知と判断
前々説では対象の構成と機能について、前節では概念と言明の記述のあいだにある関係について検討した。本節では、概念と対象のあいだで機能する形式である認知と判断について検討しよう。
概念が言葉(あるいは言明)とともに想起されることは前節でみた通りである。これは習慣によるものであった。一方で、概念の想起が、対象の構成とともにおこることがある。このとき、概念を構成している感覚的イメージが、感覚的特定によって規定される感覚的印象とともに対象を構成する。これは概念が対象について成立するということであり、これを認知という。
認知とは、リンゴの概念を想起しつつ、ある対象について「これはリンゴである」と予期することである。対象が単独であるように、認知も単独である。これが意味するところは、あるとき、ある対象について「これはリンゴである」という認知が成立することと、また別のあるとき、ある対象について「これはリンゴである」という認知が成立することの間には何の関係もないということである。
認知は概念と対象のあいだに機能する形式である。どんなに私がリンゴの概念を思い浮かべたところで、それに該当する対象が構成されなければ認知は成り立たない。認知が可能な概念であっても、いつでもそれが成立するわけではないのである。また、私は妖怪の概念を思い浮かべることができるが、それを認知したことはない。すべての概念が認知可能というわけではないのである。確かにマンガに描かれた妖怪の絵について、それを概念の対象として認知することはできるだろう。ただし、この場合に認知されているのは創作物としての妖怪の概念である。
私がリンゴを認知する過程で、それが「赤い」という性質に関する記述と連接するもの(「リンゴは赤い」という言明)として想起したとしよう。これは記憶された言明(知識)の想起である。一方で目の前に構成される対象は、全体が黄色であるとする。ではこの対象はリンゴではないのか。実のところ、私はすべてのリンゴがいつも完全に赤いわけではないことを知っている。確かにスーパーマーケットに並んでいる商品としてのリンゴの果実は概ね鮮やかな赤色をしているが、ひとつひとつを見れば色の強弱があり、黄色や緑色の部分もある。また収穫前のものは一般に緑色をしていることも、種類によっては黄色いものがあることも知識として知っている。
そこで、もし目の前の対象について、色彩以外の形状、触感、重さ、香り等が、記憶されているリンゴの概念と矛盾しないのであれば、私は記憶している言明(「リンゴの種類によっては黄色いものがある」)に基づいて、当初に想起された「リンゴは赤い」という言明を「あるリンゴは黄色い」に改めるだろう。そして「これはリンゴである」という認知に到達する。もし、私が黄色いリンゴがあることを知らなかった場合は、「あるリンゴは黄色い」という言明を新たな知識として記憶するだろう。あるいは、その色調、形状、触感、重さ、香り、味わい等がリンゴの概念と矛盾するならば、別の概念、例えばナシという概念を想起するだろう。
ここにあるのは、知識として記憶されている概念に関する諸々の言明と、その成立が予期される対象とのあいだのせめぎあいである。概念と対象は異なる形式であるから、これらが一致するということはない。にもかかわらず両者を結び付ける働きが認知であり、そこに至る過程で機能する形式を判断という。
判断には推論における判断と、対象の構成における判断がある。対象の認知に際して、「リンゴは赤い」を「リンゴの種類によっては黄色いものがある」に更新したり、想起する概念をリンゴからナシに変更することを推論における判断という。これに対して、土が付着したリンゴを手にして「これはリンゴである」と判断するとき、付着してる土の印象やイメージは対象から除外される。これは対象の構成における判断である。
つまり、対象の感覚的印象と矛盾しない概念を想起することで認知を成立させるのが推論における判断の機能であり、想起された概念と矛盾しない対象を見出すのが対象の構成における判断の機能である。あらゆる認知の成立に際して、こうした判断が機能しているのである。